コミュニケーションの土台(続・最近の人はモノを知らない?)

この前、最近の人はモノを知らない?というコラムを書いた。このエントリはその続編です。
このコラムでは、モノを知らないのはちょっと寂しい、という下りで終えていたわけです。このコラムを書く元となったエントリはid:Toshi666同じ時期に習った理系の知識はなぜ常識じゃないのだ?、というエントリから来ていますが、自分自身は文系理系関係なく、いらない知識はないということを、ここで改めて強調しておきます。というか、文系理系というのは教育コース上の分類だけであって、それ以上のことを文系出身か理系出身かで判断する傾向には、ちと懐疑的です。
話がそれたのですが、知識とか経験、id:Toshi666のコメント欄に書き込まれているやぎさんの言葉を借りれば「教養」というものは、その人自信を豊かにしてくれるってだけじゃなくて、別の人とのコミュニケーションを円滑にしてくれる、いわば潤滑油みたいなものだと思うんですよね。それが、一見無駄に思えるトリビアのようなものであっても例外ではなく、コミュニケーションの潤滑油という意味では立派に機能しているんだと思います。
ここで、id:Toshi666のエントリのある段落を引用しておこう。

ほとんどのヒトに適用できる「共通の知識基盤」ってのが、「常識」って言葉ですよね? それって言わば、会話やコミュニケーションの土台となるものですよね? そこにずれがあるってことは、すでに寄って立つ場所に差があるわけで、話がスムーズに行くはずもないです。知識や経験の取捨選択ってのは、結局、土台を狭くすることかと思うんですよ。つまり、その土地にいた人々とは永遠に交わらないことじゃないですか? ちと寂しくない? それ。もっと極論すれば*2、選民思想に通じますぜ、だんな。

選民思想うんぬんの下りは正直わからないが、この段落で言われていることには概ね合意である。そもそも、人とコミュニケーションをとるためには共通の「言語」が必要になる。例えば、研究者が学会で意見を交換する際には、厳密な定義のある「専門用語」を使って話をする。日本人だって、とある外国人が「旅行先の知識」を勉強してある程度のことを知っていたら、シンパシーを感じて色々と教えてあげたくなっちゃうことだってあるだろう。
これらのことは、別に「言語」や「専門用語」や「旅行先の知識」なんて大上段に構えた話ではなく、銀座三越ではふんどしがクラシックパンツとして売られているというような「トリビア」にいたるまで同じことだと思うのですよ。程度の大小はあると思いますが。
で、ここから「会話とは何か」という領域に話が踏み込むのだが、人間同士の会話ってコンピュータのプロトコルと違って、自分が意図したことが100%伝わらないことが多々ある。「さっき言ったじゃん」とか「そのことは前にも言ったよね」という感じで歯がゆい思いをしたことのある人は多くいると思う。とある発話に伝えたい必要な情報が余すところ無く含まれていても、それを聞く側がどう受け取るかってのはわからない。それに対して不平不満を言うことは簡単だが、世の中人間全員が、そう簡単に理想的な状態になるとは思えない。
会話においても共通の知識、経験、教養、バックグラウンドがある人同士の会話と、そうでない人同士の会話は全然違うと予想される。で、更に重要なことは教養のない人は教養のある人に合わせることは難しいということである。その逆の教養のある人が教養のない人にあわせるのは容易だと思う。まぁ、fujieさんの言うように、教養のない人を完全にバカにして優越感にひたるというのは論外だと思いますが、一時的に楽しいってこと以上にコミュニケーションの円滑化、シンパシーを感じるって重要なことだと思うのです。
私は、最近の人はモノを知らない?id:Kita-Cのコメントに同意である。

# Kita-C 『うんうん。要らない知識と経験なんて無いですよ。どんな知識でも知ってそんなことは無いし、経験だってそう思う。』

ということです。
最後に、私の好きなシューティングゲーム「東方シリーズ」のプログラム・キャラクター・音楽を一人で担当しているZUN氏が掲示板を閉鎖する時に書いたコメントを引用したいと思う。

ただ、私はこの掲示板を通して多くのことを学びました。学ぼうと思って学んだ事は、実は非常に薄く狭い。人間はどこでも学ぶことが出来る。道を歩く事も、TVを見ることも勉強になる。
 逆に「時間の無駄だ」「(何かの)やり方を知りたい」「googleで調べろ」を口癖としている人は、学び方を知らないだけなのです。